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あのとき歴史は動いた?

1日1記事。わたしが気になったニュースを国内・海外からpickup。独断と偏見でコメントも添えてお届けします。古代より日記は史料として貴重な財産。現在の「○○を食べた」「○○と今日はデート」的な個人ブログとは一線を画してお届けします。

2017.4.7 羽柴秀吉の墨俣一夜城は一夜でできたが武田家・高遠城攻めの一夜城は違う?

しょうもないニュースが入ってきました。

日本史好き、あるいは戦国好きならご存知の「墨俣の一夜城」。

斉藤道三亡き後、美濃を狙った織田信長も、地形、美濃の有力家臣団の切り崩しで苦戦し、けっこうな時間がかかりました。

今川義元を討ち取った桶狭間の戦いがクローズアップされがちですが、基本的に信長は「負けるけんかはしない」。

大博打は何気に桶狭間のみ、しいて言えば家臣を舐めて本能寺に単身宿泊したことくらいでしょうか。

 

美濃攻略のきっかけとなったのが墨俣に築いた城。

まだ豊臣秀吉どころか城すら持っていない木下藤吉郎時代の偉業といえます。

 

忽然と朝起きたら現れた城。

敵方はあせるわけですが、武田攻めでも実は行われていたんですね。

高遠といえば勝頼にもご縁がある土地柄。

そこに一夜の城を築いたという伝承がこれまであったわけですが・・・

これがなんと・・・一晩でできたわけではない、というニュース。

 

以下引用です。

 

「一夜の城」は一夜では建たなかった--。長野県伊那市教育委員会は7日、戦国時代の1582年(天正10年)に織田信長の長男信忠による武田軍の高遠城攻めで一夜にして築かれ、陣を構えたと伝承がある「一夜の城」の発掘調査で、城の入り口にあたる虎口(こぐち)側で巨大な堀が見つかったと発表した。四方を堀で囲まれていたとし、一夜で築かれた城ではなかった可能性が強いという。

 

一夜の城は「織田軍の兵士がこの辺りの農民の道具を借りて一晩のうちに築いた城」と伝えられている。調査した市教委文化振興課の濱慎一学芸員(40)は「(信長一代記の)『信長公記』や伝承から、この地に織田軍が陣を構えたのは否定できない」と語る。

 しかし、市教委の2012年の調査で城の50メートル四方の土塁の外側、3面で堀の跡を確認。元はV字に掘られていた堀を幅広に改修した痕跡も見つかった。さらに、織田軍が陣を張った150年前の陶磁器も出土。「土塁も高く防御力の高い、地元有力者の城館を接収して使ったのでは」との説が浮上していた。

 今回は土塁の東面を調べ、堀を拡幅した跡のある堀も2カ所で見つかった。いずれも幅約8.5メートル、深さ2.7メートルで、高遠城とは直線で約3キロと近距離にあり、濱学芸員は「高遠城攻めのための城であれば(守備力を上げる)堀を広げることはしない」と指摘する。

 市教委は今後、織田軍がここに陣を置いた証拠を探す。濱学芸員は「土鍋など三河地方特有の遺物などが出土すれば」と話した。